生きているモノは必ず、死を迎える。それはこの世の中における普遍の法則とも言える。動物社会において、生命の死は生きているモノを活かすのに必要なモノとなっている。それは肉を食すモノにとっての貴重な栄養となったり、食物が育つ為の養分へと変化していく事で実現するシステムである。人間社会においてはどうであろう。現代のおいてはほぼ上記で書いたような事は発生していないだろう。もし、動物社会と同じ事が起こっていたとしても、古くからの仕来たりを重んじている辺境の地にある風習と言っても過言ではないだろう。現代の日本において、葬式をし、火葬場で遺体を焼き、お骨を墓へ納める。その後、お墓へお参りをし、生者と死者との語らいを行うといった一連の流れが死者を弔う方法として一般的な行いだろう。最近、私は伯父を亡くした。祖父と父親が中心となって、お墓を納める場所を決定していた。その場所が霊園だった。伯父は亡くなる前に話していた事としては『なるべくだったら地元の土地で眠っていたい』という希望であった。元々、先祖が眠っている墓が少し遠い場所のお寺にあったがまだ健在である祖父母とも相談した上で、地元にある比較的新しく出来た霊園に場所を決定し、お墓を設ける事となった。この決定に関して私自身としては大賛成である。理由としては、過去にお寺へは訪れた事があったが、お盆などの時期である為、交通渋滞が大変酷く、一泊二日の日程ではあったが、とても重労働であった事を覚えている。それよりも近場にある霊園へ行ける方が顔を出しにいける回数も増えるし、お寺へ訪れた際に発生した疲労感も全くない。これは生者の都合になってしまうが、その墓へ入るモノたちも納得済の事なので、どちらにとっても良い関係であると言える。また、お寺ではお布施や寄付などを行い、住職に管理されていく事になるが、私自身は霊園であれば費用が明確になっている為、責任の所在がはっきりしていて良いと思う。伯父の件は父親が主体となり、物事を決定して行ったが、数十年後には、自分が主体となって物事を決定していかなければならないだろう。もちろん、墓に入るモノたちの意向によって寺か霊園か等が決定されていく。私自身の選択としても、地元の近くにある霊園で管理された場所に墓を立てる事を考えている。先にも述べたが、死者と生者が語らえる場所は物理的な距離感が近く、生者の都合に合った所を選ぶ事が最も良い選択であると思う。